ダビが崇拝するほどの刻印師と言えばBarre家(パリ造幣局第17代目と18代目の刻印総監)
ダビの長年の研究でまとまった厳選「有意義的」情報と作品紹介を前に、ご紹介したよね
19世紀のダビ刻印師「三位一体」
イエス様=Barre家
聖母マリア様=Tiolier
3位に入るのはDrozなんです。
“Jean-Pierre DROZ”
1746年スイス Neufchatelで誕生うう。
1764年二十歳でダビの祖国フランスに渡って、自然の成り行きで出会ってくるのは、当時パリ造幣局総監だったBenjamin Duvivier氏のアトリエに加わる。
大人になってすぐDrozはフランスとスイスの二重国籍取得する。
複雑機構などを発明する家族で生まれたお方ですから、流石に家族からの影響は侮れないね!すごい。
そこで、コイン刻印って言うよりコイン作りの機会改良に腕を発揮する。
彼の若き日の仕事内容は、実験的階段機械作り!
1780初頭、革命的かつ斬新的コイン作る機械を発明するんです”la Frappe en VIROLE”!あとで、ご説明しましょう。。。
その時の革命的「発明」(皮肉にも実際3年後フランス革命発起)でかの有名なEcu de 1786年ルイ16世 (Louis 16) Six (6)Livres銀貨の試作貨幣で自作の機械使ってエセーを作る。
この機械のどこが凄いかっていうのは、
ダビがご説明しましょう!
簡略化して、言うと同時に(裏-表-縁)を一回で作れる機械なんです。
この当時にしてはの凄さがわかります???
Do you understand that amazing and revolutionary invention ????
難点としてはコストが高く、あと、偏見とヤキモチだらけの造幣局のお偉方が、
その時、新しい総監の地位に選ぶのは刻印師Dupre氏なのです。
Dupreには貴族階級のお友達が大勢いたので、まだMonarchie(王政)だったあの頃が、コネ次第って感じ。
すごく有能なのに、造幣局などのその不理解と汚いやり方にムカついたせいか、1787年イギリスに「亡命」的移動するんですよ!
それも、莫大な知識と発明したものも持って行ったのです。
イギリスに渡ったきっかけはイギリス刻印界で既に著名なBoultonさんが手助けした。その後BoultonさんとWattさんのアトリエでDrozが作った機械をあそこで活躍させる。
英国では知名度の高い彫刻家、発明家になるううううう
途中で、フランス革命が1789年に発起して、翌年1790年のConcours Monetaireが発表される!
もうて自分の当然の地位をやっと取れるチャンスと考えて、その時フランスに帰るが、とんでもない悪運っていうか、ご縁の正反対で悪い人に引っかかります。
それは私利私慾だったComite Monetaire(コイン委員会)のメンバーの一人に、そのConcours用でDrozが作った8個のエキュを渡す。
で、どうなると思います?
その委員会の人が一切、それらのコイン作品を委員会に紹介も見せることせず、一票ももらえないまま終わり。
最低だね 👿 可哀相にいい。
黒幕?同じConcoursの刻印師Augustin Dupresが1791年議会の前で(敵対関係にあった)
Drozが作った機械の、
・発明権が怪しい~
・維持費が高すぎる~
などと言って、Drozは煙がられ、Concours受賞者はDupresとなり、
そして、結果的には次期パリ造幣局総監の座に就く!
Drozがイギリスに渡ったのは自国が嫌で、頭脳流出って感じですね(同じくダビが日本に来たと同じ)。
だが、数年後、Napoleon第一帝政となり、またフランスに戻る。。。
Baguetteの考案者であるNapoleon Bonaparte (ナポレオンボナパルト)がDrozの凄さを歓迎して、
Tiolier(ナポレオン一世のコインのほとんど全部ううう刻印した刻印師)と共同で素晴らしいコインを刻印する!
その代表作は無冠有冠タイプ20と40フラン金貨 !
知らない人ってもはや日本国内では、いるまい?
1804年から1814年までの間(10年一昔)刻印師の世界で極珍事と言っても過言ではないことが起きた。
それは、二重刻印であります。
(パリ造幣局総監Tiolierの「T」と,その上「J.P.DROZ 」ナポレオンの首の凹凸の部分)
パリ造幣局総監Tiolierさんがどれだけ自慢の弟子Droz師を寵愛してたかがわかるね。
王政復興などで次期総監に成れる筈だった、ボナパルティスト派の彼が、慣れずにフランス銀行側に注文された、
傑作級のメダル、Jetonなど。。。他界されるまでの間に幾つか遺して。。
価値的には未だに過小評価だが、外観美は目の保養!
あああそれと、12歳の時だったか、故郷のBourgogne地方で通ってた中学校の校長先生(女性)が
40フラン金貨(有冠)首につけていたので、極印象的で、ダビにとってDrozのロマンが幼いから始めていたんだなあああと懐かしく思うううう。。。
そして、話が脱線したが、Drozの作った機械技法が偽物対策として採用される!
しかし晩年、やっと最高傑作ができたときに、ナポレオンが百日天下で失脚…
ナポレオンを味方していた方々の魔女狩り開始…
言うまでもなくTiolierもDrozも火あぶりの刑にはならなかったが再び追い返される。
そして遺憾なことに1826年に永眠。。。
Droz様、ご冥福をお祈りします。
革命前、Drozが若い頃に発明した(現代コインの機械の先祖様)機械が1830年から全ヨーロッパに普及!
もっと前にDroz様の才能を認めろよおおお 👿
死後、生前の凄さと素晴らしい手腕がどこでも認めらるようになった。
ああいう才能だらけの時代の先駆者が悲しい事に、才能発揮できずままに素晴らしいコインを幾つかだけ残してくれたことに感謝感激雨あられ。
David Smith