Karl V 絶頂期の王

イギリス

2016.11.1

 

はい、どーも!
コインマニアバッティです♪

さて、今回は偉人シリーズ、第5弾でございます!!
そして、今回取り上げるお方は…

でけでけでけでけ
でででででん!!

カール5世(Karl V, 1500年-1558年)でございまーす♪
いぇいいぇい♪ 

さて、ではさっそくいってみましょう!!


みんなが大好きな、アゴしゃくれ一族こと、ハプスブルク家。

そのハプスブルク家が「太陽の沈まない帝国」となった絶頂期に、
神聖ローマ帝国皇帝となった人物…それが、カール5世でございます。
(在位:1519年 – 1556年)

以前取り上げた、マキシミリアン1世とマリーを祖父と祖母に持つ、
ほんまもんの超絶サラブレッドですね。
*以前の記事はこちら。(リンク)

で、気になるお顔は、こんな顔♪

Charles_V,_Holy_Roman_Emperor_by_Tizian
カール五世ターレル

 

うん、間違いなく、ハプスブルク家の血を引いております(笑)

 



★カール5世はどこの人?

さて、このカール5世でありますが、
実は「○○国の人」っていうのが、なかなかに難しいのです。

神聖ローマ帝国と言えば、普通、真っ先に思い浮かべるのがです。

しかし、カール5世は、
「ほとんどドイツで暮らしたことがねぇ」ってことでも、
有名な人物なんですよね(笑)

もともと、1500年にフランドルのガン(現在のベルギー)で生まれ、
1517年までネーデルラントで育ったカール5世は、
幼少の頃よりフランス語に慣れ親しみ、ドイツ語はあまり得意ではなかったようです。

カール5世の有名な言葉で、次のようなセリフがあります。
「I speak Spanish to God, Italian to Women, French to Men, German to horse」
(私は神にはスペイン語で話し、女性にはイタリア語、男にはフランス語、そしてドイツ語は馬に語る)

ドイツ語は馬にしゃべる言葉だなんて、何ともひどい物言いですね(笑)

そのセリフにもドイツに対するスタンスが表れていたんですかね、
1519年に神聖ローマ皇帝に即位して早々、1521年から1522年の分割協定で、
ドイツのハプスブルク家領・皇帝不在時の皇帝代理権・帝位継承権を、
弟のフェルディナントに譲ってしまいます。

で、やっぱり、カール5世が本拠地に選ぶのは、スペインネーデルラントなんですね。
そして、神聖ローマ帝国皇帝としての権力を背景に、ますます強大な帝国をつくっていくわけです。

だから、神聖ローマ帝国の皇帝でありながら、彼の肖像が描かれているドイツコインって、実は相当に少ないようです。
(まぁ、こういうところが、マニア心をくすぐるんですがねw)

さて、そんなわけでして、
カール5世は、実は数えきれないほどの称号と名前を持っているのです。

まず、神聖ローマ皇帝以外で真っ先に挙げられるのは、
スペイン国王(在位:1516年 – 1556年)としての彼でしょう。
この時、カール5世は、カルロス1世(Carlos I)と呼ばれます。

他にもいろいろありますよ~。
このへんは、Wikipedia先生が、以下のようにまとめてくれていますね。


称号がすべてついた場合、以下のようになる。

カール、神の恩寵による、神聖ローマ皇帝、永遠の尊厳者、ドイツ王、イタリア王、全スペインの王及びカスティーリャ王、アラゴン王、レオン王、ナバラ王、グレナダ王、トレド王、バレンシア王、ガリシア王、マヨルカ王、セビーリャ王、コルドバ王、ムルシア王、ハエン王、アルガルヴェ王、アルヘシラス王、ジブラルタル王、カナリア諸島の王、両シチリア及びサルデーニャ王、コルシカ王、エルサレム王、東インド、西インドの王、大洋と島々の君主、オーストリア大公、ブルゴーニュ公、ブラバント公、ロレーヌ公、シュタイアーマルク公、ケルンテン公、カルニオラ公、リンブルク公、ルクセンブルク公、ヘルダーラント公、アテネ公、ネオパトラス公、ヴュルテンベルク公、アルザス辺境伯、シュヴァーベン公、アストゥリアス公、カタルーニャ公(prince)、フランドル伯、ハプスブルク伯、チロル伯、ゴリツィア伯、バルセロナ伯、アルトワ伯、ブルゴーニュ自由伯、エノー伯、ホラント伯、ゼーラント伯、フェレット伯、キーブルク伯、ナミュール伯、ルシヨン伯、サルダーニャ伯、ズトフェン伯、神聖ローマ帝国の辺境伯、ブルガウ辺境伯、オリスターノ辺境伯、ゴチアーノ辺境伯、フリジア・ヴェンド・ポルデノーネ・バスク・モリン・サラン・トリポリ・メヘレンの領主。


うん…つまり、
なにやらもう『ワケわかめちゃん』状態です(笑)

とにかく、すげぇことになっちゃったてことです(笑)

まぁ、僕が面白いなと思ったのは、
フランス社交界での通り名、「シャルル・カン」(Charles Quint)なんですが、
これについては、今回は横に置いておきますね(笑)



★太陽の沈まない帝国をつくる源泉

カール5世を、なぜ今回、取り上げたのか。

それは、その大な帝国をつくるという、
一大プロジェクトを突き進めていくために、
彼の中を押していたのは、どういう想いだったのか。

それを知りたいなと思ったからです。

これは、僕の想像の範囲を超えませんが、
カール5世は≪自分が何者なのか≫ということを考えていたのではないかと思います。

国内に目を向ければ、宗教対立の処理に追われる日々。
国外に目を向ければ、文化面では敬愛していたフランスやオスマントルコが、
隙あらば攻めてくるという状況。
そして、国境が簡単に変わってしまう世の中です。

現在の日本で暮らしている僕たちからすると想像をしにくいですが、
その時代に多くの領土を行き来しながら皇帝として過ごす日々は、
想像を絶するストレスだったに違いありません。
そんな中で、カール5世は、
≪自分=ヨーロッパの王≫として位置づけようとした。

そうすることで、多くの国がひとつの国となり、争いが無くなることを望んでいた。
これが、彼の行動原理になっていたのではないかと想像しています。

最後に、彼の退位の際の演説について、記載を見つけたのでご紹介します。


1555年、長年の痛風及び統治と戦争に疲れたカール5世は、
ついに退位を決意する。

フェリペだけでなく、弟フェルディナンド、姉エレオノーレ、
妹マリアも出席したブリュッセルでの退位式で、彼はこう語った。

「余はドイツへ9回、スペインへ6回、イタリアへ7回、フランドルへ10回、
フランスへ4回、イギリス、アフリカへ2回づつ、合計40回におよぶ旅をした。

(略)これまで余は、経験不足や、あまりのむこうみずさなどによって、
多くの過ちを犯してきた。

しかし、けっして誰かを傷つけようという意図はもっていなかった。

もし万一、そんなことがあったとすれば、ここに許しを請いたい」

そう言って、涙で演説がとぎれたという。


ヨーロッパを一つにし、戦乱の世をおさめたいという彼の想いは、
結局最後まで叶うことはありませんでした。

しかし、その思想が、現在のEUのかたちに結びついてきていると考えると、
なかなか、興味深いですよね。

それでは、今回はこの辺で。

僕の書いた記事が、少しでも、あなたのコインの旅路に役立ってくれたら嬉しいです♪

コインの様にマブ友達リク中、バッティでした♪

 


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